生きるって大変なこと。すごいこと。

32歳で大腸がんになった私の、それでも生きる、海外奮闘記

子宮腺筋症、入院5日目(術後2日目)

快晴の朝だ。


f:id:tabi10yume:20191214085728j:image

 

背中に入れていた痛み止めも昨夜外され、点滴も終了。繋がれていた各種ケーブルがなくなり、とうとう自由になった。

麻酔も安定剤もないせいで夜は痛みもあるのか寝付けなくなり一時間おきに起きてしまうようになったものの、仕方ない。これからは少しずつ昼寝を減らして夜きちんと眠れるようにしないと。眠れないことで、眠れない時にいつもメラトニン(睡眠サプリ)をくれていた彼のことを思い出してしまって少し悲しい。お腹を切って新しい人生なはずなのに、たまに気持ちが過去に引きずられそうになる。今日は眠れないようなら睡眠導入剤を出してもらおう。

 

朝完全粥と、おかずもしっかりでてきたけど、全然動いていないしお腹が空かないから全部は食べられない。そもそも三食きちんと食べるような生活、長らくしてないのに。少しずつ気が向いた分だけ食べていけばいいよね、ちゃんと活動しだしたらお腹は空いてくるだろうし。


f:id:tabi10yume:20191214090910j:image

退院までなんだかんだであと4日。それまでにしっかり元気になろう。

 

 

子宮腺筋症、入院4日目

腸がぐるぐる動いている。

食事は45時間ぶりくらいだろうか。腸の手術をしたわけでもないのに、ずっと休んでたところに刺激を与えたせいか、胃腸が目まぐるしく動いてキリキリ痛い気すらする。久々に食べる食事は、ヨーグルトが美味しかった。重湯は一口食べて諦めた。


f:id:tabi10yume:20191213212615j:image

まだお腹の傷はかなり痛い。どうやら抗生剤のせいだけれど、昨日は何も食べていないのにお腹を下して、おかげでトイレに立つのが大変だった。とにかく、起き上がるたび、歩く度にまだ痛いのだ。

今朝から経口剤を取れるようになったので、整腸剤を出してもらいなんとか落ち着いた。だけど胃腸はキリキリ、お腹壊すのも怖いし、久々の食事もあまり嬉しくはない。

 

早く食べられるようになるといいなあ。

でも食べられずにちょっと痩せたらいいなあ、なんて手術が成功したあとのよくばり。

 

人生初の、男と家を一緒に捨てた日

自分で選んで決めたのに、こんなに辛い日はなかったというくらい久々に泣いた。ありえないほどの快晴の朝、大好きな家を出ていかなければならなかった。

誰に追い出されたわけでもない。でも決めたのだ、幸せになるって。幸せが何かはわかっていないけれど、今が幸せでないのはわかる。ここに住んでいる限り、彼とは離れられない。だから大好きな人たちのいる大好きなこの家を、勇気を出して出ていかなければと。

ただ、朝から涙が止まらなかった。いつものように彼と同じベッドで目覚めおはようのハグをして、シャワーを浴びてビジネス服に着替える彼を見ながら、ただ違うのは、全部がこれで最後だということだ。平気だと思っていたのに自然と涙が出てきて、でも"I'm not crying(泣いてないもん)"と嘯いてみる。"Are you okay?"と抱きしめられても、心配なんかしてほしくない。これからはもうこのハグも遠いものになるのだ、泣きたいときには一人で泣くことになるのだ。彼だけでなく他のルームメイトにも別れを告げて、なんでこんな悲しいのに出ていくんだろうと自分でもよくわけがわからなくなる。ルームメイトのカナダ人が入れてくれた最後のコーヒーを飲みながら、愛おしむように景色を目に焼き付けた。


f:id:tabi10yume:20191119203335j:image

大好きだったけど、優しかったけど、なんだかんだで自分のことが一番好きな人だった。私のことをどこまでも大切にって感じではなかったし、結局病気のことも打ち明けられなかった。大事なことが話せない人とは、ずっと一緒にはいられない。一年前から、長く続かないことはわかってた。だけど、ふられたわけでもなく喧嘩したわけでもないのに離れるって、けっこう辛い。

 

引っ越しの前の夜は二人で最後の食事をして、食べ過ぎで二人共苦しくなってろくに話もせずに寝てしまった。いつも夜中くっついて寝るのに食べ過ぎで体温が高すぎてお互い離れて寝て、なんて失敗なラストナイトなんだろう。

 

さようなら。

せっかく生き延びた人生を、死んだように生きるわけにはいかないから。もっと笑って暮らせるように、私はあなたから離れます。さようなら。

 

 

苦い思い出。日本人会。

私は日本人会が嫌いだ。個人的に関わったことはないけれど、とてつもなく苦い思い出がある。今日は日本人会館に行くのでまた思い出してしまった、あの日のことを。

 

がんの手術のため、私はAdam Roadにある病院に入院していた。英語も喋れない母を日本から呼び寄せ、ランチを食べに行くにも、言葉がわからず不安だろうに出かけていく母に何もできず、病気以外にもその部分にかなり気を揉んでいた。

入院二日目のあの日、母が半泣きで戻ってきた。ランチに外に出たら日本人会館を見つけて、ほっとして、やっと日本食が食べられると中に入ったら、会員でないからと断られたと。

会員でなければレストランが使えないルールは知っている。けれど、うちの会社は上場していてちゃんと寄付金も払っているし、会費の処理は毎回私がやっていた。娘ががんで手術を受けた直後、知らない言語に囲まれ、不安で不安で、日本人会館を見てどんなに喜んだろう母に、ランチの一つも食べさせてくれないなんて。日本人のためにならないなら、なんのための日本人会館だよ、と。

あのときの母の顔を思い出すと、今でも胸が痛む。

 

体が回復してからも、日本人会からの請求書を見るたびにいつもあの日の記憶が蘇ってイライラした。なんでこんなところに金を払うんだと。

駐在員がいなくなったので退会したから、今では商工会の用事で行くくらいだけれど、極力避けている。

忌々しい思い出・・・。

恋と大戸屋の話 Episode 2

大戸屋エピソード2】
定食好きなくらいで大戸屋男だなんてひどい、というエピソード1読者からのコメントがあったのだが、彼の大戸屋にかける意気込みは半端では無い。


四回目の食事(懲りずに決行)、前回のトラウマから抜け出せなかった私は、中目黒駅での待合せの後、半ば強引に「ねえ、あっちにいい店見つけたんだ!!」と、大戸屋と反対側に彼を誘導。お金が無いのかも、とも心配して、安くて雰囲気もいい店を選んでおいた。いつも通りゴルフの話で数時間。(余談だが、私は彼のおかげでゴルフ理論に詳しくなってそれは感謝している)


そして、五回目の食事の日の朝。あー、今日も大戸屋だったらどうしようと案じていたら、彼からのメールが、その心配をすっかり取り除いてくれた。
『じゃあ今日、20時に大戸屋の前で。』
どうやら前回の私の抵抗がお気に召さなかったようだ。待合せが大戸屋で、それ以外の店に行く選択肢はあるだろうかと考える。そもそも、オシャレな飲み屋が山ほどある中目黒で、大戸屋の存在を知っている人の方がほんとは少ないのだ。そして、ここは全く待合せに適さない。中目黒で唯一のキャバクラの上が大戸屋になっていて、結局、私は客引きのお兄さんと向かい合いながら、彼が来るのを待つ事になる。そしてアートネイチャー勤務時代の武勇伝を聞き、最後はスタバ。

 

こんなに大戸屋にこだわる人をそれまで見た事がなかったので、「もしかして彼は大戸屋グループの息子では無いだろうか」と妄想したことも否めない。しかし、たまたま友人が大戸屋の社長宅で家庭教師をした経験があり、彼と大戸屋が全く関係無いことは証明された。
世の中には本当に色んな人がいて、幸か不幸か、私はたくさんの人達との出会いを繰り返す。これからもきっと多くの学びと驚きが私を待っているかもしれない。

恋と大戸屋の話。

大戸屋エピソード】
もう2011年の出来事で時効なので話してしまおうと思うが、大戸屋男(7つ年上)と私の出会いは、打ちっぱなしで「連絡下さい」と携帯を書いた名刺を渡されたところからだった。この年になってそんなナンパはなかなか無いものだから、激しく舞い上がってしまった私の、恋に恋する日々がここから始まる。
口説かれることなく二回の食事を終え、三回目のデートがやってくる(と私は思っていた)。今回が勝負だろうと、7回くらい着替えた果てのとっておきのワンピース+ブーツで出かけた私に、中目黒駅の改札で20時、彼は突然「今日さ、大戸屋でいい?」と持ちかけるのであった。本当に、稲妻のようなショックを受けた私であるが、小心者がゆえ受け入れた挙句、「も、もちろん!私チキン母さん煮定食大好きだよ!」と気が動転して思ってもいないセリフが飛び出てしまう。大戸屋の後はスタバに連れて行かれ、彼のゴルフスイングの映像をデジカメで一時間以上見せられながら「この映像、誰だと思う?」「えー、すごい上手いけど誰だろ?もしかして、XXさん!?」という至極無意味な会話を繰り返しながら過ごした。(ちなみに彼はプロなので、本当にゴルフが上手い)
この大戸屋とスタバのセットコースを数回続け、心身共に疲弊してしまい、この恋は終わりを告げた。

 

思い出しても悲しいエピソード...90%くらい省略するとこんな感じ。ほんとは随所にもっと爆笑のシーン(当時の私には全く笑えない)があるのですが、文章ではお届けしきれないので、興味のある方はそのうち直接。
人生って、ほんと奥深いですね。

とりあえずの完治宣言?

冷房のきいたオフィスタワーから出て生温かい空気に触れたら、初めて涙が出てきた。母親にメッセージしたせいかもしれない、検査結果クリアだったよ、と。


f:id:tabi10yume:20190327145740j:image

火曜に検査して二三日で結果が来ると聞いていたのに、電話が来ない。何か見つかったのだろうか、でもそれならそれですぐ再診の依頼がくるはずだし。と時折気にしながら待つこと数日、大好きなカツ丼を久々にランチに食べていたら、電話がなった。

「Miss, 病理検査の結果も良性でした。あとは二年後にまた検査を受けてね」

ということは、私は五年をクリアしたのだ。大腸がんの再発は、95%以上が5年以内に起こるとされている。つまり、再発する可能性はほぼ無いと考えていいようで、これが完治の目安と言われている。

 

ガンから生き延びたんだ。

ここ数年普段は全く病気のことは気にしてもいないけれど、思った以上に安堵している自分がいた。一番喜んだのは母だったと思う。母の性格からすると、こんな身体に産んでしまって、と考えていたに違いないから。

妹とも良かったねと話をして(父は寝ていて電話に出なかった…)、当時お世話になった人達にメッセージを打った。とうとう五年乗り越えました、と。別に今日という日に何が変わるわけでもないけれど、これは一つの節目だ。このガンからは生き延びてもこの先なんの病気にかかるかはわからないし、病気以外にも何か起こるかもしれないし、でも心配はその時すればいい。大事なのは今を生きることだ。

 

とりあえずの完治宣言に乾杯。
f:id:tabi10yume:20190327152033j:image

支えてくれた人達と、遠くても近くても、今私の毎日を彩ってくれている人達に感謝します。