生きるって大変なこと。すごいこと。

32歳で大腸がんになった私の、それでも生きる、海外奮闘記

五年検診

先週、大腸がん手術後五年目の検診に行ってきた。

平日にまる一日お休みをもらい、血液検査と超音波診断と内視鏡による検査を行う。海外だと再発のチェックも日本ほど頻度は高くなく、Colonoscopy(大腸内視鏡)も二年ぶり。

先生は大腸専門医でParagon medicalセンターに小さなオフィスを一室構えていて、そこに朝10時に到着、下剤を飲んで午後の検査に備える。日本で同じ病気の治療を受けていないので何とも言えないのだけど、シンガポールは医療レベルは高いものの、色んなことが緩くて患者としてはとても楽だ。例えばこの検査の前日も、飲食の制限を聞いたら「食物繊維さえ取らなければ何食べてもいいよ、当日は水だけにして」と言うので、前夜もがっつり中華飲み会で肉と麻婆豆腐を食べた。お酒も少し飲んだ。五年前の大腸がん手術の前日にも、焼き肉に行って母に呆れられたのを覚えている。だって万が一間違って死んじゃうかもしれないし。肉食べたいし。先生も、「何でも好きなもの食べなさい、肉もいいんじゃないか、スタミナつけとかないと」と笑ってたのでそうしたまでだ。日本のサイトを見てると、手術や内視鏡の前日は消化にいいものを…と書いてあるので、こっちに比べたら少し制限が多く感じる。単純に日本人以外が我慢弱いだけかもしれないけど。


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クリニックで2L飲まなきゃいけない下剤をなんとかちびちび飲んでいると、血液課のナースが採血にやってきた。パラゴンは便利でいい。一つのビルが総合病院のようになっていて、血液だったら向こうから取りに来てくれるし、超音波は11時半に3階に降りてってね、というように、小さなクリニックなのに色んなことがビル内で完結する。ただ、今回は11時半の超音波検査時に下剤が効いてて、う、今お腹押さないで!ってなるのが辛かったけど。

再発検査のとき、私は超音波が一番嫌いだ。検査技師の手が止まるたび、え?何かやばいもの見つかった?と不安で張り裂けそうになる。転移再発に一番怯えていたので、一年目のときは超音波検査でほんとに一筋涙を流してしまった。今年はもう大丈夫だろうとは思いつつも、やっぱりビビるもんなんだなと改めて思う。

パラゴンにもさすがに内視鏡施設はないので、超音波のあと、道路を挟んで向かい側のマウントエリザベスの内視鏡センターへ向かう。何時にどこへ行ってという指示の書類を検査場所毎にもらっているのでそれに従い、支払いは全てまとめて最後の内視鏡センターで。効率的である。高いけど。
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マウントエリザベスへチェックインを済ませ、4時間の入院手続きを取る。内視鏡自体は15-30分くらいだけれど鎮静剤を使うとフラフラするし、帰れる程度に回復するまで時間がかかるのだ。先生が到着するのは三時、それまでにナースが点滴用の針を通して、あとはもう本でも読んで待つだけだ。ベッドはそのまま施術室に運ばれるので、施術後の昼寝が終わるまで立ち上がる必要もない。

時間になって内視鏡室に運ばれ、そこでナースが鎮静剤を打とうとすると、先生に「要らないよ、痛くないから」と言われる。ナース皆えええ、となっていて(こちらでは内視鏡に限らず無痛の施術が基本)、でもどうやら先生の意図は、五年目だし一緒に腸の中を見てみようということらしい。確かに、手術の時も内視鏡検査の時もいつも寝ていて、私は自分の腸内を見たことがない。鎮静剤無しに同意して、検査が始まる。あ、意外と普通。行き止まりまで行くとお腹がちょっと気持ち悪いけど全然いけた。モニターに映る自分の腸はとてもきれいで、いつも暴飲暴食でいじめているのに、この子は頑張ってるんだなあと妙に親しみが湧いた。一個ポリープは見つかって切除したけど(その作業のスムーズさにも感動)、見たところそんなに悪くはなさそう。私のがんは直腸部分にあったので、最後に手術の繋ぎ目を見せてもらったけど、ここだよって言われてもわからないくらいにきれいで、一度切って繋がれてこんなふうに再生するなんて、身体ってすごいな強いんだな。

作業はあっという間の15分で終わり、先生が、あとはまた二三年後に内視鏡してね、と言って去っていった。今日の医療コストは全部で3,440ドル(28万)もしたけど、これで五年に終止符が打てるなら安いものだ。



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鎮静剤も打ってないので、あっという間に放免になった。この日最初の食事であるお粥を食べて、病院を後にする。温かいミロが心にしみる。手術明けはご飯が食べれずよくミロを飲んでた事も思い出す。懐かしく思えるのは素晴らしいことだ。

超音波は大丈夫だったらしいので、あとは血液検査と病理検査の結果が良ければなんとか終了。早く結果が出ますように、何ともありませんように!

 

 

 

 

MakeOver Magic - 美しい人たちとの出会い

五年経ったら病気のことを打ち明けてもいいかなと思っていたけれど、つい二ヶ月ほど前、ひょんなことからきっかけをもらった。それがMake Over Magicだ。

シンガポールでは誰もが聞いたことのあるヘアサロンShunji Matsuo。1996年からシンガポールにサロンを開いた松尾俊二さんのお店はシンガポール国内だけで10店舗にものぼる。彼の活動はサロン運営のみならず、高齢者が美しく輝く社会の実現を目指し、2013年から60歳以上の一般の高齢者をモデルにしチャリティファッションショーも展開してきた。そんな風に美で人を元気にしてきた彼が、がんと闘い昨年10月に亡くなった。彼の一周忌もかね、毎年行われてきたこのMake Over Magicに、高齢者のみならず、がんサバイバーがモデルとして起用されることになった。

そんな話を友人のFacebookで見て、せっかく生き延びたのだからなにかイベントのお手伝いが出来ないかと連絡させてもらったのが始まりだ。最初はモデルをやるつもりは到底なかったのだけれど(受付かなにか人手になれればと思っていた)、運営者の中込さんに「私達も彩さんを応援したいと思います。是非ステージに上がってください」と背中を押していただき、これを機にショーのモデルになって、友人達に病気の事を公表すると決めた。こんなデブでブサイクなのにステージにあがっていいのかなとも思ったのだけれど、そんないつものネガティブさも少しは克服できたらなという希望もありつつ。

今では参加したことにとても感謝している。そこで出会った人たちは、ドレスを着る前から、髪をセットする前から、皆とても美しかった。80歳のおばあさんも、抗癌剤治療中の乳がんの女性も、死と向き合ったことのある人達の放つ、溢れんばかりの生命という魅力。人はこんなにも優しく、強く、明るく、美しい。ウォーキングレッスンもリハーサルの楽屋のときも、皆の笑顔に触れているのがとても心地よかった。「私はシェフで料理も出来るし、歌もうまいしダンスも出来る。何にだってなれるのよ、なりたいもの限定だけど。」という70歳超えの女性。あの抗がん剤はきついわよねえ、副作用が〇〇だしー、と笑い合うがんサバイバー達。ここでしか出会えなかった人たちだ。


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そもそも私はこっそり一人でがんと向き合ってきたので、もっとこんな風に支えたり支えてもらえばよかったんだな、と口惜しく思ったりもした。ともかく、このショーのおかげで私には初めてガン友が出来た。ありがたいやら何やら。。:)


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親しい友人や同僚にも見に来てもらおうと、ショーをきっかけに告白した。その時のリアクションで自分とその人の関係は絆が強くなったり逆に離れてしまったり様々だったけれど、この経験も含めて自分なのだから全部受け入れることにした。

 

 

歳をとってもこんな風な美しさを放っていたいと思える素敵なおばさま達にも、がんを生きる仲間たちにも出会えたこと、感謝しています。俊二さん、ありがとうございます。

 


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天然ボケの友人 

手術に立ち会ってくれた友人は、稀に見るすごいレベルの天然ボケ女子だ。賢いし可愛い上に天然なので癒し系女子なのだけれど、芯や思い込みが強かったりして、味もあるのでそこも大好きだ。

 

病気を打ち明けて治療について話している時に、

彼女「え、それは散らせないんですか?」

私「○○ちゃん、それ、盲腸だよ・・・。がんは散らしちゃ危ないよ・・・」

二人爆笑。

 

盲腸と大腸がんを間違える友人が近くに付き添ってくれたおかげで、私も深刻になりすぎずにすんだのかもしれない。未だに私、盲腸の話を聞くとこの会話を思い出すのです。 :)

私の命を救ってくれた痛み

そもそもガンが発覚したのはひょんなことからだった。血便はあったものの一時的な痔だと思っていたし、がん自体は特に痛みがない。ある時期から突然お腹が痛くて眠れないほどで、検査の結果子宮筋腫が原因だった事がわかったけれど、ついでにやった大腸内視鏡で腫瘍が発覚したのだ。手術でお腹を開いたときに、見えた筋腫も一緒に焼いといたよと先生が言ってくれたけど、あの時は子宮が「やばいよこのままだと死んじゃうよ!と腸の代わりに悲鳴をあげてくれたのだと今では思っている。

そして、検査数日前の脳天気なFacebookポストはこれ…。

 

Facebook 27th Feb, 2014

最近原因不明の内臓痛がひどいので妹にLINE。「お姉ちゃん余命いくばくも無いかも‥そしたら本書こうかな(超弱気) 」ひとしきり売れそうなタイトルの相談をした後、「できたら中ぐらいの出版社から出してね。大手は仕入れたくても減数かかるし、小さいとこは店舗から嫌がられるから。」とプロからの意見。無駄な会話でちょっと元気にはなったものの、アホな事やってないで、明日病院に行こうと思います‥(_ _)

 

 

あの時痛がってくれて、ありがとう子宮。

病気の発覚

検査に行ったのは、2014年3月11日だった。奇しくも東日本大震災の日だ。

若いし何もないと思うけどねと言った医師は、大腸内視鏡検査を行った後、顔が青ざめていた。手術をする事になると思うんだよね、僕が執刀出来ればいいんだけどここ(シンガポール)ではライセンスの問題があるから、専門医を紹介します。親御さんにも相談した方がいいかもしれない。とりあえず来週再診してくださいと、その時はガンどころか腫瘍の深刻さについても触れてくれなかった。多分告知をするという義務を彼自身が負いたくなかったんだろうと思う。これについては今でもちょっと恨んでいる、この時教えてくれれば専門医に会う前に質問の準備も出来たのにと。まさか自分がガンだなんて思っていない私は、手術なんて初めてだし不安すぎると、仕事の忙しい友人達を無理やり呼び出してカッページテラスの白木屋で飲みながらグチった。お見舞い来てね、って。実際に病理検査の結果が出てからはショックすぎて、この友人たちにすら実はガンでしたー、って言えなかったのだけれど。下記が当日のFacebookのポスト。高層ビルで経験した震災も怖かったけど、2014年のこの日の不安は得体のしれないものがあった。

 

Facebook, 11th March

生きてるだけで感謝、と思うべき今日なれど、後厄のパンチに完全ノックダウン。こんな時日本だったら、とつい思ってしまう‥恋しい友人達。

 

このポストに「電話する?」とコメントしてくれた日本の友人には、この日から治療までもずっと精神的にサポートしてもらったので感謝に絶えない。私のがんと向き合う日々はここから始まった。

病気の最中にいたあの時の、私の気持ち

いつか来る日のために書きとめておいた、あの当時の気持ち。2014年5月に書いたものを経過年数だけ追記し、そのまま記載します。

 

 

多くの人には伝えられていないし本当は話すべきでないのかもしれないけれど、ちょっとした想いがあって、この話を公表しようと思う。私が初めて死を意識した衝撃のガン告知は、2014/3/18、今から4年半前のことだ。ステージ3aの進行大腸癌、切り取ったリンパ節にも転移があり、五年生存率は70%。五年後に三割の確率でこの世にいないかもしれないと思った時にはわりと愕然としたけれど、なんとか今もまだ、再発なしに元気に生きている。最初の始まりは2月末の謎の貧血と腹痛で、色々検査した結果、「内視鏡で黒に近いグレーな細胞が見つかりました。手術した方がいいですね。」とオブラートに日本人医師に告げられたあの日が3/11。漠然と不安に駆られ、仕事後疲れ顔で駆けつけてくれた友人たちに申し訳ないと思いながら、「皆も健康診断はきちんと行ってね」「入院中暇だからお見舞いに来てね」なんて言いながら、楽しくビールを飲んだ。あの時は本当に、自分がガンだなんて思いもしなかった。3/18にシンガポールの大腸外科の専門医に会いに行く。そこで「自分の病気知っているだろう?Cancerだよ。」とストレートに言われ呆然とした。見せられた細胞診断の結果には「Moderately Differentiated adenocarcinoma(中分化腺がん)」と確かに記載がある。え?私ガン?事態が呑み込めないまま手術の日取りを決め、何か質問はないかと言われ、「手術しても、子供は自然分娩で産めますか」と予定もないのに頓珍漢な質問をしたりした。その日のうちにCTスキャンや血液検査をして、どうやら他の臓器に転移がないことはわかってホッとしたけれど、現実でないような、ぼーっとした気持ちで日中過ごす。Orchard GatewayのDean & Delucaでチョコレートアイスを食べ今後について考えながら、友人からのゴルフ手配のメッセージに「いつもありがとう」と返すと、「何、殊勝なこと言って。早まるなよ!」と返ってきて、あまりにタイムリーなので笑ってしまった。早まるつもりは無かったけど、早まる事になるのかもしれない、と。夜は誰かに会いたかくて少し声をかけたけれど、実際に会うと泣いてしまいそうな事に気づいてやめる。そして、一人で泣いた。死ぬかもしれないという事より、こんな時に一人ぼっちなのが何より辛くて、この日から数日は、自分で自分を抱きしめながら眠りについた。近しい友人に話をしたかったけれど良い話ではないし、この歳でガンだなんて皆も動揺しちゃうだろうし、限られた人にだけ伝えて支えてもらった。この時期にチャットや電話で励ましてくれた友人たちには、本当に感謝している。タイミングを逃して病名は言えなかったけど、病気発覚の時に飲んでくれた友人たちも。皆がいてくれなければ、きっと乗り越えられなかったと思う。この頃の心情はわりと不思議で、死ぬことについては全然怖くはなかった。もともと“Live for the moment”を座右の銘に掲げていて、やりたいことをやりたいようにやって生きてきた。目いっぱい遊んでたくさん旅して楽しく働いて、今死んでも何の後悔も無いなと思ったし、今でも、これってすごいことだと思っている。もちろん結婚や出産をしていない事はある種の後悔ではあるけれど、そうなったらまた別の後悔が生まれていたはずだし。明日死んでも何の未練も無い、という気持ちと、私の周りには本当にいい人ばかりいるな、という冷静で平穏な思いに包まれていた。だから死ぬことよりも、病気を抱えてこれから生きていくことを考えると、そっちの方が怖いし辛かった。

手術には日本から来た母親が立ち会うことになった。自分の手術よりも、英語もわからず異国で不安になるだろう母が心配だったので、迷惑かけるのは承知で、仲良しの友人に頼んで手術に立ち会ってもらうことにした。彼女にも本当に感謝している。麻酔をかける前にも「彩さん大丈夫!絶対イケメンの夢見るから!」と励ましてくれた事も、多分一生忘れない。笑 手術は二時間程だった。初めて入った手術室には10人以上人がいて、緊張を解きほぐそうと、「シンガポールで一番美味しい日本食屋は?」とか、麻酔医師がくだらない質問を続けていて、そこで記憶が途切れている。終わってからすぐに目を覚まされ、病室に戻ってわりとベラベラ喋っていたのには自分でも驚いた。最初の数日はそこそこきつかったけど、最先端のロボットによる腹腔鏡手術だったので痛みはさほどひどくなかったし、回復も早かった。日本では二週間の入院が必要と言われる手術を丸三日で退院し、仕事にも術後二週間で復帰した。

 告知からわりと平然と過ごしてきた自分ではあったけれど、一番のショックは病理検査の結果だった。術後一週間での再診で、リンパへの転移が告げられた。切ってしまえば終わると思っていたから、あまり細かい事まで考えていなかった甘い私。リンパ節に転移があったという事は、既に体内のどこかへガン細胞が散らばっている可能性があるという事だ。再発率は25-30%となり、五年生存率は65-70%になる。そして、もし肝臓や肺へ遠隔再発した場合、5年生存率はたったの17%。ここから一か月ほど、私は命の数字に振り回されることになる。この夜はまた泣いた。「数年間も生きられないかもしれない自分と結婚してくれる人なんていない。家族も作れないのなら、生きている意味なんてあるんだろうか」と号泣した。手術の前にも一度だけ大泣きしたことがあって、お腹を切ったらもうビキニを着れなくなるかもしれない、と手術二日前に気付いた時だ。この日はそれまでのメソメソとは違い、幼児のように大声を出して数時間わんわん泣いた。こんな風に、命に係わるこんな時にも、ビキニの事や結婚の事しか考えられない自分に気づいて、ああ、私は女性だったんだ、とひどく思い知らされる。そうして、そんな女性としての自分を大切に生きてこなかったことを、自分自身に詫びたりした。

 しばらく何も考えずにいたかったけれど、そういうわけにもいかなかった。抗がん剤治療の投薬は通常術後4-6週間以内。日本の治療ガイドラインだと、ステージ3aの患者は通常半年の術後化学療法を受ける。幸か不幸かシンガポールで治療を受けたという事で、シンガポール人の外科医には「僕は抗がん剤治療は不要だと思うけれど、再発が無いともいえないし、まだ若いからね」という事で、海外らしく自分で決断することとなる。シンガポール抗がん剤治療の説明を受け、手術の翌々週にも日本でもセカンドオピニオンを受け、結論としては、抗がん剤治療をすると生存率が7-8%上昇、さらに強いものを併用すると12%ほどになる、との事だった。ただし、全員に効くわけではないし、治療しても再発する人もいる。また、手術だけでも7割ほどの人は完治するので、抗がん剤治療自体がそもそも無駄な人もいる。ただ、副作用はほぼ全員に何らかの形で見られるそうだ。大腸ガンの場合脱毛が無いことがわかってほっとしたけれど(脱毛があるなら絶対にやりたくなかった)、それでも末梢神経の痺れや皮膚の黒ずみ、吐き気などは多くの人に見られるらしい。仕事はある程度続けながら治療は出来ると言われたものの、駐在生活で副作用に耐えながらというのも辛いだろうし、かといって日本に突然帰ったら自分が病気だと周りにばれてしまい、それもそれで精神的に辛い気がする。そして、半年を犠牲にしても、生存率は5年70%から80%近くに上昇するのみ。だけどそれって一般的な数字で、そもそも30代の大腸がん治療実績なんてまともなデータが無いのだから、若いことが吉と出るのか凶と出るのかもわからない。何なの、この数字。悩んで、いろんな闘病ブログも読んでみる。Google検索に“がん”という文字を一体何度打ち込んだだろう。再発して、ああ、抗がん剤治療をしとけばよかったと後悔するのも嫌だ。でも、なんだか治療には抵抗がある。グルグルするけどちっとも答えが出ない。いっそのこと余命半年とかならそれなりの決断ができるのに、と重病の方に失礼なことも考えた。あと数年なのかあと数十年なのか、寿命がわからない中でも、時間の過ごし方は同じになる。治療をするのかしないのか、どうやって生きていくのか。自分の生死が自分の決断にかかっているかもしれないのが、本当に重くて辛かった。また、この時期、両親より先立ってしまうかもしれない親不孝を思うと、それも何より辛かった。孫の顔も見せずに好き勝手生きてきたどころか、先に死ぬのかと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。身体は少しづつ回復してきた時期だったものの、悩んで悩んで、精神的に苦しかった。重ねてになるが、余り食べられないこの時期に食事を共にしてくれた友人たちや、倒れそうな時に肩を貸してくれた友人、どんな決断も応援するよと言ってくれた友人には、言葉にできない感謝をしている。

とりあえず四月中に結論を出そうと、毎日少しづつ考えた。そうこうしているうちに、BBQやピクニックとかシンガポールの日常生活を送る中で、このままの生活を続けたい、という思いが強くなった。抗がん剤をやらない覚悟も無いけれど、やる覚悟もつかない。だから、治療はしないことにしよう。ちゃんと考えぬいたというより、この明るいシンガポールの空気の中で、もう考えられなくなったという方が正しいかもしれない。人生の中でも、最大級の決断だった。その代り、たくさん笑ってたくさん寝て少し健康にも気を遣い、でも、自分らしく生きていくと決めた。ガンと告知されたあの時のように、今死んでも微塵も後悔の無い生活を送るんだ、と。たとえ明日が来なくても、今日が最後の日でもそれでいいと思えるように、精一杯生きていくんだ。ダメ元で恋もする、友人たちと目一杯遊ぶ、仕事も楽しむ。失敗してもいい、生きているからそれが出来る。

病気になった当時、友人の中には「一体どうして、なんで彩なの」と泣いてくれる子もいたけれど、それについて考えて、とある時期から「ああ、私だからだ。私なら大丈夫だから、神様は私を選んだんだ」と思うようになった。私ならこの病気と一緒でも、きっと笑って生きていける、乗り越えられる。だから、結婚したり子供がいる私の友人たちじゃなくてよかった、私でよかった、と心底思えるようになっていた。実際、病気で悩んでいる時も、友人たちに会うときは私はいつも笑っていた。無理して笑ったことは一度もなく、自然に幸せに生きてきたよ。今は思う、病気になってよかったかも。おかげで私はそれまで以上にたくさんの事に感謝できるようになったし、相手が目には見えない何かを抱えているかもしれないと思うだけで、すべての事に寛容になれる。人から見たら少し過剰で気持ち悪いリアクションもしているかもだけれど、誰かに会うたびに「会えてよかった(これが最後かもしれないし)」と、毎回とてつもない喜びを感じられる。何もかも、世界が違って感じられる。神様、皆、ありがとう。私は、身体がくれたサインと生きる事について考えられたこのチャンスを無駄にせず、数年かはたまた数十年か、生きている限り、これからも最高の人生を送るのだ。

 

周りのもの、全部失うと思ってみると、素敵なもの、かけがえのないもの、たぶんいっぱいあるよ。皆の周りには普通の幸せが溢れているってこと、どうぞ感じて、大切にしてください。そして、健康診断はちゃんと行ってね!私の友人たちや仕事仲間や皆、健康で幸せでいられますように、と心からの祈りを込めて。

 

 

※病気を告げると友人や取引先や同僚やいろんな人に気を遣わせるのが怖くてずっと黙っていたけれど、若年性ガンが増えていること、同世代の皆にも気を付けて欲しいから、公表しました。私も大腸癌で血便がありましたが、痔だと思ってました、本気で。だって大腸癌って4-50代以降でなる病気なんだもん。過剰に気にする必要はないけれど、健康には、適度に気を付けて欲しいな。また、これを、身近な方々に、“日々を生きる”ことを考えるきっかけにもしてもらえると幸いです。あと、臓器にもよるけれど、ガンは不治の病ではないから、ひとたび治療を終えたガン患者に対しては、普通に接してもらうといいなと思う。抗がん剤治療を行っていなければ皆と同じ生活が送れるし、いつ死ぬかわからないリスクは、誰しもが常に背負っているのだから。

この文章は、いつか来るその時の為、主に、治療の方向性を決めた2014年5月に書きました。幸い四年半も無事に過ぎてくれ、95%の再発が起きるという五年間を無事ならほぼ完治に等しいです。それまで何もなく過ごせるといいな。

親しい方々、黙っていたことはごめんなさい。いつも元気な私のままで、変わらず接してもらいたかったから。これからも、こんな私ですが引き続きのお付き合いどうぞよろしくお願いします!ラブユー!☺

 

告白します。私、キャンサーサバイバーです。

重い腰をあげて、とうとうちゃんと書くことにした。

がんと診断されたあの日から、いつか始めなきゃと思いもう四年半も立ってしまったけれど、最近神様と友人にきっかけをもらったので、きちんと形に残そうと思う。

 

2013年3月に告知され手術して、進行性大腸がんステージ3との診断。

データから見る5年生存率は65-70%。

当時の私は32歳、独身、海外勤務。

どうしてと、泣いたり、悩んだり、色々考えて、それでも今まだここで生きている。

 

振り返ってみると、病気の最中、その一年後の再検査の時、そして今、それぞれのフェーズで感じていることが全く違う。生きるってシンプルなはずなのにとても複雑だと思ったこと、その時々の気持ちを刻んで伝えていきたいと思う。

 

少しづつのアップデートにはなりますが、どうぞお付き合いください。